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人物秘話

たった5年で消えた天才女流歌人の悲劇

2026年07月30日 03:00
たった5年で消えた天才女流歌人の悲劇

1882(明治15)年、大阪・富田林の豪商の家に生まれた石上露子は、わずか5年の創作活動で明治文学史に燦然と輝く絶唱『小板橋』を残しながら、家制度の重圧によって筆を折られた悲劇の歌人だった。

露子の本名は杉山タカ。杉山家は「一に杉山、二にさどや」と歌われるほどの大名家。幼い頃から家庭教師・神山薫について和歌や漢籍、琴、上方舞と、一流の教育を受けた。

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「この子は天賦の才がある」

神山はそう確信していた。露子が書く短歌は、同年代の娘たちとは一線を画していたからだ。

明治30年代、露子は「夕ちどり」の筆名で『婦女新聞』に投稿を始める。やがて与謝野鉄幹が主宰する新詩社の社友となり、機関誌『明星』に作品を発表するようになった。

ところが、彼女の目は華やかな文壇だけではなく、世の中の不条理にも向けられていた。

「女は男に従えという、そんな理屈がどこにある」

露子は女性の地位向上を訴える文章を書き、日露戦争のさなかには反戦の歌も詠んだ。21歳の若さで、社会の矛盾に果敢に挑んでいたのだ。

しかし、露子には生涯忘れられない恋があった。家庭教師・神山の遠戚にあたる長田正平。東京高等商業学校の学生だった正平は杉山家を訪れ、二人は相思相愛の仲になる。

「必ず戻る。待っていてほしい」

正平はそう言い残して海外へ旅立った。だが、その約束が果たされることはなかった。

その時、露子の胸に去来した切ない想いが、一篇の詩となって結晶する。1907年に発表された『小板橋』である。

ゆきずりのわが小板橋 しらしらとひと枝のうばら いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕に いひしらず沁みて匂ひき

かつて恋人を待ちながら渡った小板橋。そこに白い野ばらの一枝が流れ寄り、橋げたにかかっている。暮れゆく光の中で、その花は言いようもなく心に沁みた——。

「ああ、うばら、あともとどめず、小板橋ひとりゆらめく」

この一篇は「明治詩屈指の絶唱」と絶賛された。露子は茅野雅子、玉野花子らと共に「新詩社の五才媛」と称され、さらなる飛躍が期待されていた。

ところが、運命は非情にも彼女の前に立ちはだかる。杉山家の長女として、婿養子を迎えることが決まったのだ。

露子が『小板橋』を発表したのは、まさに結婚の直前だった。初恋の相手への想いを詩に込め、最後の輝きを放ったかのように。

1907年、迎えた夫は露子の文筆活動を快く思わなかった。翌年には、本人の同意なく新詩社への脱退届を出し、『婦女新聞』の購読停止まで通告した。

「なぜ、わたしの歌を奪うの」

露子の抗議は届かなかった。家制度が支配する明治という時代。女は家に従い、筆を置くことが当然とされた。

その後、露子は2人の男児に恵まれたが、夫は株式投機にのめり込み、名門・杉山家は没落の道をたどる。別居を決意した露子は、子どもを連れて京都へ移り、細々と短歌を再開した。

しかし、さらなる悲劇が彼女を待っていた。長男・善朗は結核に冒され32歳で死去。次男・良彦は太平洋戦争に従軍し、戦後は高校教師となったが、42歳で自ら命を絶った。

最愛の息子たちに先立たれた露子は、晩年、富田林の杉山家へ戻った。

そして1959年10月8日、脳出血のため78年の波乱の生涯を閉じた。

彼女が愛した小板橋は、今も竹林の中にひっそりと佇んでいる。石川のせせらぎだけが、過ぎ去りし日の恋と、一人の天才歌人の足跡を静かに語り継ぐ。

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