歴史の扉 知られざる歴史の物語
歴史の謎

雨の夜、天才版画家は忽然と消えた

2026年07月30日 22:00
雨の夜、天才版画家は忽然と消えた

1931年、二十歳の藤牧義夫は、彗星のごとく版画界に現れ、わずか四年後に忽然と姿を消した。

だが、彼が忽然と消えたのは、まだ二十四歳の秋だった。残されたのは、全四巻、全長六十メートルにも及ぶ『隅田川絵巻』と、数々の謎である。

デニムに合う。履くだけで「ちょいワル」 デニムに合う。履くだけで「ちょいワル」Tapoon

義夫は1911年、群馬県館林町に生まれた。代々館林藩に仕えた士族の家系で、父・巳之七は小学校校長を務めていた。

十人兄弟の末子だったが、兄たちは次男の秀次を除いて皆早世。二歳で実母を失い、十三歳で父も病没した。その約二年後、兄の秀次も結核で亡くなっている。

しかし、父の影響は深く刻まれていた。父は「三岳」と号して絵や書をたしなむ人物で、義夫は十五歳の時、その父の伝記『三岳全集第一巻』を自らの手で完成させている。義夫は父を心から尊敬していた。

十六歳で上京した義夫は、銀座の植松図案工房に入り、染織図案家・佐々木倉太に師事した。商業図案を学ぶ傍ら、独自の様式による創作版画を制作し始める。その後、デザイン会社に就職したが、版画への情熱は衰えなかった。

そして二十歳の1931年、『ガード下のスパーク』『夜景』『請地の夜』を展覧会に出品。翌1932年には、小野忠重らと「新版画集団」を創立した。

彼らが目指したのは、浮世絵のような商品としての版画ではなく、版画そのものを芸術表現として世に広めることだった。明治以来、版画は大量印刷の手段と見なされてきた。その常識を覆し、版画の大衆化を掲げたアマチュア芸術家集団、それが新版画集団だった。

義夫は関東大震災から復興する東京の街並みを、力強く生命力あふれるタッチで描き続けた。失踪までのわずか四年間に、数十点もの作品を残している。その後もエッセイ執筆や版画制作、初の個展と、精力的に活動していた。

ところが、順風満帆に見えたその人生は、1935年9月2日、一人の雨の日に終わりを告げる。

その日、義夫は浅草区神吉町の下宿を出て、八月に館林の実家へ帰省し、東京に戻ってきたばかりだった。向島区吾嬬町西に住む姉・みさをの家を訪ねた。

姉は言った。「雨だから、明日にすれば」

しかし義夫は首を振り、「これから、ていの家に行く」と伝えて、夜の雨の中へ出ていった。

それが、姉が見た弟の最後の姿だった。この時、義夫は大きな荷物を持っていなかったという。

その時、もう一人の人物の証言が、物語を揺さぶる。新版画集団のリーダーで、後に版画家界の重鎮となり紫綬褒章を受章する小野忠重だ。小野の居宅は、墨田区向島、言問橋の近くにあった。

小野が1978年の「藤牧義夫遺作版画展」に寄せた文章によれば、義夫は二つの大きな風呂敷包みを抱えて現れ、こう言ったという。「下宿を引き払ってきた。これを預かってほしい」

包みの中には義夫の作品とともに、表現派やダダの書籍が詰まっていた。小野は、義夫が貧困に苦しみ、飲まず食わずで追い詰められ、瘦せこけた頬に涙を垂らしながら、仲間への謝罪と感謝を繰り返したと後に語っている。

「藤牧は隅田川に沈んでいると、友人間では信じられている」――小野はそう語った。その後、義夫の姉から「まだ来ない」と連絡が入り、小野は最悪の可能性を考えた。親族が捜索願を出したが、義夫の姿は見つからず、生死不明のまま行方不明者となった。

ところが、二人の証言は食い違う。姉は「大きな荷物はなかった」と言い、小野は「大きな風呂敷包みがあった」と言うのだ。しかも当日は豪雨の予報が出ていた。雨の日に傘も持てない状態で、湿気に弱い版画作品を風呂敷包みで持ち歩くことなど、あり得るだろうか。

さらに、小野が預かったという本は、思想としては左派に分類されるものだった。しかし義夫は、父の影響で右派宗教団体「国柱会」に所属し、1934年には精華会メンバーにもなっている。保守思想の彼が、改革派の本を愛読していただろうか。

加えて、この頃の義夫は仕事も順調で、貧困に苦しんではいなかった。小野は当初、『義夫はそれまでの作品を全部ひとの手に渡して、隅田川絵巻の製作に集中した』と書いていた。それなのに、後年になって「自分が預かった」と話を変えているのだ。

そこに、義夫の作品とされた版画の多くに、他人が手を加えた偽作の疑いまで浮上した。しかし、当時の関係者のほとんどが鬼籍に入った今、事故か事件かも分からないまま、真実は闇の中だ。

義夫が消えて六年後、1941年、太平洋戦争が始まる。東京は空襲に焼かれ、一人のアマチュア芸術家の失踪は、誰の記憶からも消えていった。

彼の足跡を後世に伝えたのは、皮肉にも、最も謎に近いとされる小野忠重だった。小野は自らの回想の中で、芸術家を志すも理想と現実の狭間で思い悩み、心を病んで世を儚んだ青年として義夫を描いた。

そして、小野が提供した作品による遺作展がきっかけで、失踪の経緯は一転して疑わしいものとなった。

もし彼が消えずに戦後を生きたなら、日本の芸術界に大きな影響を与えていただろう。だが、歴史に「もし」はない。

現在、故郷・館林市の法輪寺に義夫の墓はある。しかし、そこに義夫の骨はない。

彼はあの雨の夜、隅田川の底に沈んだのか。東京湾へ流されたのか。それとも、まったく別の場所で生きたのか。

この世に残されたのは、六十メートルに及ぶ『隅田川絵巻』と、短い生涯が燃やした珠玉の作品だけである。

これは高圧洗浄機と同等の強さで、電力不要 これは高圧洗浄機と同等の強さで、電力不要BlastPro

今、あなたにオススメ