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時代の記憶

19歳で散った叔父と清朝皇族の絆

2026年07月26日 22:00
19歳で散った叔父と清朝皇族の絆

元治元年(1864)11月、わずか19歳の若さで暗殺された一人の公家がいた。彼の名は中山忠光。明治天皇の叔父でありながら、その人生はあまりにも短く、あまりにも激しいものだった。

忠光の姉・中山慶子は明治天皇の生母。宮中でも指折りの名門に生まれながら、忠光の胸に燃えていたのは尊王攘夷の激しい志だった。「官位など、朕には不要だ」

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そう言い放ったのか定かではないが、忠光は官位を捨て、長州へと身を投じる。そして文久3年(1863)8月、天誅組の主将として大和で兵を挙げた。

彼らは幕府領の五條代官所を襲撃し、「五條御政府」を掲げた。のちに「維新の魁」と称される、倒幕運動初の組織的な武力蜂起だった。

ところが、その翌日、京では「八月十八日の政変」が勃発。会津・薩摩両藩によって長州藩と攘夷派の公家が京から追放され、頼みの大和行幸も中止となった。

一瞬にして、天誅組は攘夷の先兵から逆賊へと転落した。大和の山中を幕府方に追われ、挙兵から一ヶ月あまりで壊滅。

忠光はどうにか長州へ逃れたが、翌年の「禁門の変」で長州藩までもが朝敵となり、藩内では恭順派が実権を握る。「もう、この地に忠光を置いてはおけぬ」

藩にとって危険で厄介な存在となった忠光は、元治元年(1864)11月、潜伏先の田耕村で暗殺された。わずか19歳だった。

遺体は一度埋葬されたが、幕府の検死のため掘り返され、下関へ運ばれる途中、綾羅木の松林に再び埋葬されたという。

その後、奇兵隊が墓所を突き止め、慶応元年(1865)11月、長府藩が鎮魂のための社殿を建てた。これが現在の中山神社の始まりである。

その時、忠光は知る由もなかった。彼の死から半年後、一人の女の子が生まれていたことを。母親は潜伏中に身の回りを世話していたトミという女性。女の子は南加と名づけられた。

南加はやがて東京の中山家に引き取られ、成人後は嵯峨侯爵家へ嫁ぐ。そしてその孫として生まれたのが、嵯峨浩だった。

昭和11年(1936)、女子学習院を卒業し絵画に親しんでいた浩のもとに、一つの縁談が持ち込まれる。相手は満州国皇帝・溥儀の弟、溥傑。「日本のために、この結婚を受け入れます」

国策から始まった政略結婚だったが、二人はともに暮らすうち、次第に心を通わせていった。浩は中国語を学び、清朝の宮廷料理を身につけ、現地の暮らしに馴染んでいった。

しかし昭和20年(1945)、ソ連軍の侵攻で満州国が崩壊。溥傑は兄とともにソ連軍に捕らえられ、シベリア抑留を経て中国の戦犯収容所へ。

浩は幼い次女を連れ、1年半に及ぶ逃避行の末、ようやく日本へ帰り着く。日本と中国に国交はなく、生き別れの夫婦は連絡すら取れなかった。

そんな二人を再び結びつけたのが、長女の慧生だった。彼女は中国語を学び、「父と母の文通を認めてほしい」と、周恩来首相に手紙を送った。

願いは受け入れられ、長く途絶えていた夫婦の文通が再開する。しかし慧生は、両親の再会を見届けることなく、昭和32年(1957)に19歳で世を去った。

奇しくも、それは中山忠光が命を落としたのと同じ年齢だった。

慧生の死から3年後、溥傑は特赦で釈放され、翌年、浩は北京で16年ぶりに夫と再会を果たす。「よくぞ、ここまで耐えた」

その後、二人は北京で暮らし、浩は昭和62年(1987)、夫に見守られながら73年の生涯を閉じた。

「死後は中山神社に祀ってほしい」という浩の遺志を受け、昭和63年(1988)、愛新覚羅社が建てられた。現在は浩、溥傑、慧生が祀られ、浩は会うことのなかった曾祖父・忠光と同じ境内に眠る。

19歳で倒れた忠光は、半年後に娘が生まれることを知らなかった。しかしその血筋は南加から浩へ、そして海を越えて清朝の皇族へとつながっていく。

120年あまりの時を隔てた家族が、ようやく同じ場所で再会したのだった。

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