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時代の記憶

戦火のアイドル・明日待子

2026年07月31日 16:00
戦火のアイドル・明日待子

大正9年(1920)、岩手県釜石市に生まれた一人の少女が、後に日本中を熱狂させる「元祖アイドル」になるとは、誰も想像していなかった。

彼女の名は明日待子。本名・小野寺とし子。

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13歳で上京した少女は、新宿の大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」の扉を叩く。プロデューサーの佐々木千里は、彼女の才能に一目惚れした。「明日を待ち望まれるスターになれ」――そう願って名付けた芸名が「明日待子」だった。

昭和6年(1931)大晦日、ムーラン・ルージュ新宿座が開場した。軽演劇とレヴューを融合させた舞台は、時代風刺を織り交ぜたユーモアで庶民の心を掴んだ。

学生も文化人も詰めかけ、劇場は熱気に満ちた。

中でも待子は特別だった。小柄で愛らしい姿から「チィ」と呼ばれ、劇団員に可愛がられた。文芸部員は彼女の印象をこう記している。「まったく可憐であり美しかったが、女性としての野心を何も抱かせぬほどに幼かった」。

素朴で初々しく、人形のような整った顔立ち。そして何より、笑顔を絶やさなかった。

舞台では主役へと成長。『ムーラン哲学』という演目で、角帽とガウン姿で登場すると、嵐のような拍手が巻き起こった。「私は、ただ舞台に立つことが幸せでした」。ある日、楽屋で待子はこう呟いたという。

ライオン歯磨、キッコーマン醤油、カゴメ、カルピス――ポスターに登場すれば、たちまち評判となった。「初恋の味」を謳うカルピスのイメージに、待子はぴったりだった。

小田急電鉄も彼女の声を沿線案内に採用しようとしたが、試運転でレコードの針が飛び、幻に終わった。

ファンレターは全国から届き、言語学者・金田一京助、歌人・斎藤茂吉も追っかけだったという。

ところが、街の空気が変わり始める。

戦争の影が、新宿の街を覆い始めた。昭和16年(1941)、軍の統制が強まる。ムーラン・ルージュは「敵性語」を禁じられ、劇団名を『作文館』へと変えざるを得なかった。

昭和18年(1943)、学徒出陣が始まった。学び舎を去り、戦地へ向かう若者たち。

ムーラン・ルージュの客席にも、出征前の学生たちの姿が増えた。彼らは舞台の待子を見ると、感極まって叫んだ。「万歳!万歳!明日待子、万歳!」――その声は劇場の名物となった。

待子は涙を浮かべながら客席に降り、一人ひとりの手を握った。「ご苦労様。ご武運長久をお祈りいたします」。

ある日、街角で出征前の青年兵に、突然銃剣を向けられる出来事があった。近くの学生が止めに入り、事なきを得たが、待子は恐怖よりも、追い詰められた若者の哀しみを感じたという。

静かに微笑んだ待子の表情に、その青年は深く胸を打たれ、涙を流しながら一礼して立ち去った。

その時、待子は思った。「この子たちの心を、私が支えられるなら――」

陸軍や海軍が発行する慰問雑誌にも、待子のグラビアと励ましの言葉が掲載された。ファンレターが編集部に山のように届いたという。

さらに待子は、座員たちと共に満洲へ慰問団として渡った。自分の姿を待つ兵士たちのために、ただひたむきに舞台に立ち続けた。

昭和20年(1945)3月、B29の空襲で浅草一帯は焼け野原になった。それでもムーラン・ルージュには、防空頭巾や鉄かぶと姿の観客が足を運んだ。

空襲警報が鳴れば一斉に避難し、解除されれば再び劇場に戻る。そんな緊張のなか、舞台は続けられた。

そして5月、ついに劇場も焼け落ちた。しかし座員たちはすぐに別の会場を借り、公演を再開した。待子も再び舞台に立った。

戦後も地方巡業を続ける待子。昭和24年(1949)、長年のファンだった男性と結婚し、29歳で芸能活動を退いた。

北海道へ移住した彼女は、夫の事業を手伝い、やがて原点の日本舞踊へ戻った。五條流の家元「五條珠淑」として後進を指導する第二の人生。

令和元年(2019)7月、99歳で静かに生涯を閉じた。

彼女が握った若者たちの手の温もりは、今もどこかで――。

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