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人物秘話

雪の国境を越えた大女優、最後の言葉は「スパシーボ」

2026年08月02日 22:00
雪の国境を越えた大女優、最後の言葉は「スパシーボ」

明治35年(1902)4月、岡田嘉子は広島市細工町に生まれたが、この少女が後にソ連へ亡命し、スパイ容疑で拘束されるとは、誰も知る由もなかった。

父は新聞記者で、和歌山や小樽など各地を転々とした。嘉子は小学校を八校も変わり、その中で環境への順応力を身につけていった。

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少女時代、松井須磨子の情熱的な演技に心を奪われた。だが女優には偏見が強く、両親の反対を恐れて女子美術学校西洋画科へ進む。

大正7年(1918)、父が主筆を務める小樽の『北門日報』で婦人記者となった。東北の飢饉救済の慈善演芸会でヒロイン役を務めた時、初舞台の高揚に魅せられ、女優の道を志す。

父の伝手で劇作家・中村吉蔵を紹介され、大正8年(1919)に新芸術座へ入団。翌年『カルメン』で初めて観客の喝采を浴びた。

ところが、巡業中に共演俳優との間で子を授かり、大正10年(1921)2月に長男・博を出産する。未婚の妊娠は女優生命にかかわる重大事とされ、博は父の子として届け出られ、戸籍上は弟になった。

それでも嘉子は舞台を諦めなかった。同年11月、『出家とその弟子』で遊女の役を演じ、観客の注目を一身に集めた。相手役は劇団の中心俳優・山田隆弥で、新劇界を代表する若手女優となった。

大正12年(1923)3月、『髑髏の舞』で銀幕デビュー。愛と欲望を描く異色作は高く評価された。

しかし、その年の関東大震災で劇場は焼失し、舞台協会は経営難と多額の借金を抱えた。恋人でもあった山田を支えるため、嘉子は「自分の力で劇団を救う」と決意し、日活京都撮影所と契約し、破格の一万円を前借りしてその大半を劇団に渡した。新聞は「一座を救うために身を売った女優」と書き立て、近松門左衛門の遊女にたとえて「大正のお軽」と呼ばれた。

その後も『街の手品師』『大地は微笑む』などで主演し、大正14年には映画女優人気投票で第一位。モダン女優の象徴となった。

だが、嘉子自身は映画スターを「宣伝によって作られた商品」と冷ややかに見つめていた。昭和2年(1927)3月、『椿姫』の撮影中、多額の借金、山田との内縁関係のうとましさ、村田監督との役づくりのずれ……多くの悩みを抱え、共演の竹内良一と忽然と姿を消した。

世間は「情死」「駆け落ち」と騒いだ。二人はまもなく見つかり、日活は両名を解雇。嘉子は竹内と結婚し、浅草の根岸興行に所属して『岡田嘉子一座』を結成、全国各地を巡る苦難の興行生活が始まった。

昭和8年(1933)、松竹から映画復帰の誘いを受け、日活時代の借金も肩代わりされて松竹に入社。しかし人気は再燃せず、次第に舞台へ活動の重心を移した。昭和11年(1936)には井上正夫一座に加わり、再び新劇の舞台に立つ。

一方、竹内は酒を飲むと攻撃的になり、昭和12年(1937)に別居を決意。同年8月、明治座公演『彦六大いに笑う』で演技を酷評され深く落胆した嘉子は、その舞台で演出を担当していた若手演出家・杉本良吉と出会う。杉本は共産党員としての活動歴を持ち、執行猶予中の身でありながら病身の妻を抱えており、演技の相談を重ねるうち、二人は強く惹かれ合った。

戦時色が強まる日本で、杉本は「自分のもとに赤紙の招集令状がくれば、最悪の場所へ送られるかもしれない」と恐れていた。演劇界も軍国主義の影響下で先行きは真っ暗だった。その時、嘉子は言った。「いっそ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」

昭和12年(1937)12月27日、二人は上野駅を出発。北海道経由で樺太へ渡り、翌年1月3日、敷香町の国境警備隊を慰問する名目で詰所を訪れ、警備員の隙をついて猛吹雪の中をスキーで越境した。嘉子は35歳だったが、日本では新聞が連日「女優岡田嘉子の失踪」と報じ、世間は騒然となった。

しかし、二人を待っていたのは理想とはほど遠い現実だった。ソ連当局は入国直後に二人をスパイ容疑で逮捕し、別々に取り調べた。言葉も通じない過酷な尋問と独房生活が始まった。

約二年後、日本語の話せる係官から杉本の死を知らされた。死因は肺炎とされた。

ところが、杉本は越境の翌年、昭和14年(1939)に銃殺されていた。その事実が明らかになるのは、半世紀後のことだった。

「今後どうするのか?」と問われた嘉子は、二人の目的を果たすためモスクワ行きを希望した。その後も約十年にわたりラーゲリや監獄を転々としながら、再審請求を続け、ロシア語を学んだ。

昭和22年(1947)、ようやくモスクワ入りを許可され、翌年モスクワ放送局日本語課に勤務。アナウンサーとして日本語放送を担当した。その職場で、かつての共演俳優であり敗戦後にソ連に残った滝口新太郎と再会して結婚し、彼の勧めで国立演劇大学に入学し、森本薫作『女の一生』を演出するなど、演劇人としての新たな道を歩み始めた。

昭和31年(1956)に日ソの国交が回復すると、モスクワ放送で日本語放送を担当していた岡田嘉子の存在が、再び日本でも知られるようになった。

私生活は穏やかだったが、昭和46年(1971)10月、滝口が肝硬変で他界。翌47年11月、嘉子はその遺骨を抱え、34年ぶりに日本へ一時帰国した。羽田空港に詰めかけた報道陣の前で、落ち着いた口調と美しい日本語で語る彼女に、人々は深く感銘を受けた。

昭和49年(1974)には文化使節として再来日し、本格的に日本の舞台へ復帰。劇団民藝公演『才能とパトロン』の翻訳と演出を手がけ、翌年には『島』『聖火』で女優として再び脚光を浴びた。1976年には山田洋次監督の『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で老舗旅館の女将を演じ、円熟した存在感を見せた。

12年間の日本滞在の後、嘉子は再びロシアでの暮らしを選んだ。「自分から出ていった国で余生を送るより、第二の祖国で静かに生きたい」と語り、昭和61年(1986)春、ソ連へ戻った。

以後はモスクワで静かな生活を送り、平成4年(1992)2月、心不全のため死去。享年89。晩年の彼女が口にした最後の言葉は、かつて杉本良吉から初めて教わったロシア語だったと伝えられる。

「スパシーボ(ありがとう)」その一語が、波乱の生涯を締めくくった。

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