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人物秘話

82歳で歌手デビュー、火だるまになった名女優・浦辺粂子

2026年07月29日 16:00
82歳で歌手デビュー、火だるまになった名女優・浦辺粂子

明治35年(1902)、静岡県下田に生まれた浦辺粂子は、82歳で歌手デビューを果たしたが、不慮の火傷事故で最期を迎えた。

彼女の人生は、波乱万丈の映画そのものだった。

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父は寺の住職、母は士族の娘。芝居好きの母と、明治座に売店を出していた伯母の影響で、粂子は幼い頃から演芸雑誌に夢中になった。

10歳の頃には、近所の子を集めて河原で芝居ごっこ。無声映画と生芝居を組み合わせた「連鎖劇」のまねをしていた。

沼津へ引っ越すと、週末ごとに母に連れられて上京し、芝居見物。女学校へ進むが、勉強より女優になりたい一心で、1年で退学した。

17歳の時、粂子は母に打ち明けた。「お芝居をやりたいんです」。

母は咎めず、背中を押した。「お前の好きなようにしなさい」。

父には内緒で家を出た。まずは沼津に来ていた奇術一座・松旭斎天外一座へ入り、全国巡業。しかし雑用ばかりで給金はほとんどもらえず、甲府で一座を抜け出した。

上京後、日活向島撮影所へ直行するが、紹介状もなく門前払い。

次に浅草の金龍館。オペラの常打ちで、女優募集の貼り紙を見つけた。

テストに合格し、コーラスガールとして舞台に立つ。芸名は『静浦ちどり』。

しかし、スター・田谷力三にこう言われた。「君は歌も下手だし、器量もよくない。オペラで芽が出るとは思えない」。

粂子は金龍館を辞めた。だが、心の中で誓った。「いつか必ず、映画女優になる」。

しばらくカフェの女給などで食いつなぎ、知り合いの音楽部員・外山千里を頼った。「女優の仕事を世話してほしい」。

外山の口利きで、大阪の浪華少女歌劇団へ。芸名は『遠山ちどり』。しかし劇団は経営不振で短期間で解散。

再び上京。大正11年(1922)、上野の平和記念東京博覧会の余興でコーラスガールを務めた後、旅回りのオペラ一座に加わった。

ところが、ある新派の女優から「活動写真に出てみない?」と誘われ、高田馬場の小松商会へ。建築現場のような撮影所で、脇役ながら映画に出演した。

小松商会はすぐ解散。だが監督・波多野安正は、粂子にこう励ましの言葉をかけた。「君はうまい女優とはいえないが、熱心だし、他の人にはない何かがあるから、それを大切にして」。

その時、占いの老女が現れた。「このまま東京にいると、この秋に死ぬか大怪我をする。関西にお行き」。

粂子は大阪へ向かった。同年9月、関東大震災が発生。彼女は難を逃れた。

京都で旗揚げしたばかりの沢モリノ一座へ入り、再びコーラスガールに。不入り続きで解散寸前だったが、別の興業主が現れ、新派の筒井徳二郎一座との合同公演が決まった。

公演中、娘役の女優が急病で倒れた。代役を務めた粂子。

これが大当たり。筒井一座に迎えられ、新聞の演芸欄にも名前が載るようになった。

その記事を見た元小松商会の波多野監督が、日活京都の女優採用試験を勧めた。

大正12年(1923)夏、粂子は日活京都へ入り、芸名を『浦辺粂子』に。尾上松之助主演の『馬子唄』でデビューした。

当初は腰元役などの脇役。しかし決して手を抜かず、なるべく前へ出て目立つようにした。

関東大震災後、日活向島の現代劇部が京都へ移ってくると、粂子も現代劇部へ移った。

そして大正13年(1924)、村田実監督の『清作の妻』のヒロイン・おかね役に大抜擢。

夫を戦争で失いたくない妻が、夫の目をかんざしで刺して失明させる――難役を死ぬ気で演じた。

公開後、各紙は絶賛。「大胆な演技の新しいタイプの女優」。

続いて溝口健二監督の『塵境』では、鈴木傳明の相手役。『キネマ旬報』の古川緑波はこう書いた。「誇張ではない。僕はこの映画での彼女の演技を見た時、日本にもこれだけ演れる女優がいてくれたかと、涙ぐましい程嬉しかった」。

しかし、昭和3年(1928)、粂子は京都の資産家の息子・上野興一と結婚。日活を退社した。

だが結婚生活は約1年で破綻。離婚後、再び日活へ復帰。入江たか子主演の『未果てぬ夢』で戻ってきた。

その後も溝口監督の『唐人お吉』、『しかも我等は行く』では若年ながら母親役を演じ、年齢を超えた役柄に挑んだ。

この頃から、老け役を含む性格的な役どころを引き受けるようになる。

昭和7年(1932)、日活大争議で村田監督らが退社。粂子も同調して日活を離れた。

入江たか子プロダクションに参加し、溝口監督の『瀧の白糸』で三味線弾き・お銀を演じる。

陰影ある演技が、ここで早くも開花した。

昭和8年(1933)、新興キネマへ移籍。助演女優として数多くの作品に出演。戦時中は大映に統合され、庶民的な母親像を体現。

戦後は「老け役女優」として本領を発揮。成瀬巳喜男監督の『稲妻』(1952)で大映賞を受賞。

豊田四郎監督の『雁』(1953)では、高利貸しの妻という複雑な女性像を抑制の効いた演技で見せた。

その後も市川崑監督の『私は二歳』(1962)で祖母役。黒澤明、小津安二郎、溝口健二ら巨匠たちの作品に脇役として名を連ねた。

昭和46年(1971)、大映倒産を機にフリーに。テレビへ活動の場を広げ、バラエティ番組にも出演。

昭和59年(1984)、「わたし歌手になりましたよ」で82歳にして歌手デビュー。当時の最高齢レコードデビュー記録となった。

80歳を過ぎても現役。都内で一人暮らしを続け、仕事をこなしていた。

ところが、平成元年(1989)10月、自宅で湯を沸かそうとコンロを使った瞬間、火が服に引火。粂子は火だるまとなった。

全身に大やけどを負い、病院へ緊急搬送。しかし翌10月26日、87年の生涯を閉じた。

不慮の事故は、多くの人に衝撃を与えた。

彼女が残した300本以上の映画には、庶民の喜怒哀楽が息づいている。火だるまになるまで、彼女は女優だった。

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