銀幕の恋人、愛に殉ず
1912年、川崎大師の門前に生まれた一人の娘が、やがて「銀幕の恋人」と呼ばれる存在になるとは、誰が想像しただろうか。
父の事業失敗と急逝により、家計は一瞬で困窮のどん底に落ちた。母が針仕事で細々と暮らす中、弘子――後の川崎弘子は、料理屋やガラス工場で働き、幼い肩で家計を支えた。
冷房ゼロで涼しいミニギアAirio Pro ところが、運命は静かに転がり始める。
ある日、松竹蒲田撮影所の俳優・木村健児が、彼女の憂いを帯びた美貌に目を留めた。スカウトである。しかし、弘子に女優になる気は毛頭なかった。
「私はただの娘です。映画なんて、私の世界じゃありません」
そう言い放った彼女を動かしたのは、撮影所次長・六車修の熱心な説得だった。1929年、彼女は松竹蒲田へ入社。芸名は出身地と弘法大師にちなみ「川崎弘子」と名付けられた。
その瞬間から、彼女の運命は加速する。
1930年、小津安二郎監督『朗らかに歩め』、清水宏監督『青春の血は踊る』で、高田稔や岡田時彦ら二枚目俳優と共演。一躍、注目の的となった。悲劇的ヒロインを演じれば、観客は涙し、批評家は絶賛した。
1932年、『キネマ旬報』の表紙を飾る。当時、表紙は外国スターが当たり前。日本人女優としてその座を射止めたことは、彼女が映画界で突出した存在である証だった。
「銀幕の恋人」――その愛称で呼ばれるようになった弘子は、松竹の看板女優・田中絹代と人気を二分した。ミーハー層は田中、知識層は弘子。とりわけ大学生の支持は圧倒的で、新聞広告や化粧品の宣伝にもひっぱりだこだった。
その時、すべてを狂わせる出会いが訪れる。
1933年、主演映画の音楽を担当した尺八奏者・福田蘭童。彼は明治期の洋画家・青木繁を父に持つ天才肌でありながら、放埒な私生活で名を馳せる男だった。
「あの人なしでは、私は生きていけない」
周囲の反対を押し切り、弘子は福田との交際を公にした。しかし、運命は容赦なく牙をむく。
1934年2月、作家・直木三十五の追善の席での麻雀賭博が発覚。4月には一斉検挙され、福田の素行が新聞各紙を賑わせた。さらに、1932年から1934年にかけて、複数の女性を誘惑し金を借りては関係を絶つ「結婚詐欺」の容疑で逮捕されたのだ。
「女蘭童」「学者蘭童」――そんな揶揄の言葉が流行するほどの大スキャンダル。福田は懲役10ヶ月の実刑判決を受けた。
それでも弘子は、翻意しなかった。
「私は彼を信じます。たとえ世界が敵に回っても」
1935年、2人は結婚。披露宴では作家・菊池寛と松竹蒲田撮影所長・城戸四郎が仲人を務めた。菊池は「この結婚が失敗したら、すべて福田君の責任である」と厳しい言葉を贈り、城戸も福田に妻を不幸にしないよう固く誓わせた。
結婚は映画スターにとってタブー。人気は下降線をたどり、若手女優の台頭もあって、弘子の輝きは徐々に陰っていった。
しかし、夫婦仲は円満だった。マスコミが「もう別れましたか?」と問いかけても、2人は揺るがなかった。
戦後、福田はNHK『笛吹童子』のテーマ曲で再び脚光を浴びる。弘子も映画出演を続けたが、1958年、完全に引退した。
「これでやっと、人に見られずに大根1本が買えるわ」
そう語り、再びのオファーをすべて断った。旅行好きの福田の留守を守り、静かな家庭生活を送る日々。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
酒を飲まない生活にもかかわらず、弘子は肝臓を患い、病状は悪化。医師から余命を告げられた福田は、彼女を海外旅行に誘った。
「死んでもいいから、連れて行ってほしい」
医師の許可を得て、2人はニューギニア、オーストラリア、ニュージーランドへ旅立った。自ら死期を悟っていた弘子は、最期の願いを福田に託す。
「納棺の時は、川崎大師の節分のとき着た白衣と緋の袴を着せてほしい」
1976年6月、肝硬変のため64歳で生涯を閉じた。数ヶ月後、福田は追悼文にこう綴った。
「貞淑な妻だった。わたしのために、一生を台なしにした可憐な妻でもあった。すまぬ」
同年10月、福田も脳卒中でこの世を去る。まるで、弘子の後を追うかのように。
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