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天守に消えた親子──松永久秀と嫡男・久通の壮絶な最期

2026年07月25日 02:00
天守に消えた親子──松永久秀と嫡男・久通の壮絶な最期

天文十二年(1543年)正月八日、松永久通は、松永久秀の嫡男として生まれた。幼名も、生母も、詳らかではない。ただ、戦国の嵐の中で、父と同じ炎を宿して生まれた子だった。

やがて元服し、通称を彦六、諱を久通と名乗る。永禄六年(1563年)の閏十二月、二十一歳で従五位下・右衛門佐に叙せられた。

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「よくぞ育った。これより先、お前が松永の当主ぞ」

父・久秀は、家督を譲り、大和多聞山城の城主とした。位階をもらい、一国を預かる。二十一歳の若者は、いきなり戦国の表舞台に引きずり出された。

多聞山城は、大和国を治めるための拠点である。若くして一国の城主となった久通の肩に、重い責務がのしかかった。

翌永禄七年(1564年)、久通は父の主君である三好義継に従って上洛した。三好義継は三好長慶の養嗣子。その上に立つのが、室町幕府第十三代将軍・足利義輝である。

室町幕府の将軍が、この国に君臨していた時代のこと。初めての御所に、若き久通の緊張は高まった。

「御目にかかれる喜び、松永の誉れにございましょう」

実際にこう述べたかはわからない。ただ、この日から久通の運命は、将軍家という大きな渦に巻き込まれていく。

永禄八年(1565年)五月一日、久通は義継や三好長逸らと共に再び上洛した。足利義輝に出仕し、偏諱を拝領して松永義久と改名する。

「義」の字をいただき、己の「久」の上に頂く。これは主君・義輝を自分・久通の上に戴く、この時代ならではの忠誠の証だった。

自分の名に、主君の一字を頂く。この時代、これに勝る名誉はなかった。

ところが、その十九日後。五月十九日、久通は義継・長逸らと共に一万の軍勢を率いて京へ乱入した。二条御所を襲撃し、足利義輝を弑逆したのである。

将軍を討つ。それは、この時代最大の禁忌だった。しかも、討たれたのは、つい先日まで久通が「義」の字を授かっていた主君である。歴史は、あまりにも急に反転する。

二条御所に踏み込んだとき、久通の脳裏に何が走ったのか。記録は語らない。

久通にとって、義輝は偏諱を与えてくれた主君だった。その主君を殺すことは、自らの名に刻んだ「義」の字を捨てることでもあった。

永禄の変。せっかく頂いた「義」の字は、返上せざるを得なかった。義久は、再び久通へ戻る。

「主君の首を取って、この身に何が残る」

胸中にそんな思いが去来したかどうか、定かではない。ただ、この日を境に、久通の人生は光と影の両方を背負うことになった。

しかし、将軍を殺して中央の主導権を握った三好一門は、すぐに内部で軋み始める。不満を抱いた久秀は、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)と決別した。

かつて同じ旗の下、共に将軍を討った者たちである。その者たちと、今度は斬り結ぶ。嫡男として、久通は父の背中を追う以外に、道がなかった。

父の決断が正しいかどうか。久通にとって大事なのは、父が戦うなら自分も戦う、という単純な信念だったのかもしれない。

戦況は一進一退、あるいは若干不利だったかもしれない。永禄九年(1566年)六月、久秀が忽然と姿を消した。

父の消失は、ただ事ではなかった。家臣たちの動揺を一人で受け止めながら、久通は多聞山城の門を閉ざした。

単なる逃亡なのか、それとも深い思惑があっての別行動なのか。確かなことは、今も誰にもわからない。

「父上は、必ず戻られる。それまで、この城は俺が守る」

残された久通は、多聞山城に立て籠もって孤軍奮闘した。特に大和国の支配権をめぐって、筒井順慶と激しく戦い続けたのである。

父が切り取り、亡き三好長慶から拝領した大和の地。それを奪われてなるものかと、死力を尽くして防戦した。

筒井順慶もまた、大和に根を張る筒井家の当主。容易に崩せる相手ではなかった。

その時、久通の眼に映っていたのは、自らの名誉ではない。父が築き、父が愛した土地。それを失うわけにはいかなかった。

およそ一年近くが過ぎた永禄十年(1567年)四月、久秀が戦線に復帰する。親子は再び力を合わせ、筒井順慶や三好三人衆と戦い続けた。

ところが、永禄十一年(1568年)九月。織田信長が足利義昭(義輝の弟)を奉じて上洛したとの報せが、戦国の空に響き渡る。

その報せを聞いた久通は、何を思ったのか。のちに松永家が失うことになる大和の地を、一瞬だけ頭に描いたのかもしれない。

ここから松永家は、やがて「一度目の謀叛」によって大和の支配権を失う。歴史の荒波は、親子を容赦なく呑み込んでいった。

天正五年(1577年)十月十日。大和信貴山城。

信貴山城に籠城するまで、久通がどのような日々を送ったのか、詳しい記録は少ない。それでも、最期の場面には、確かに嫡男の姿があった。

籠城の果て、久秀は天守閣に火を放ったと言われる。燃え上がる炎の中、その傍らには、嫡男・久通の姿があった。

「父上。最期まで、お供いたします」

「うむ。来たれ、久通」

炎は天を衝き、親子の影は白い煙の中へ溶けていった。

炎に消えた嫡男・松永久通。その生涯は、父という太陽を仰ぎ、父と共に焼け落ちた、一輪の花のようでもあった。

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